わたしの撮った写真が、遺影に使われた。
わたしは前から
もし大切な人が亡くなったら、自分の写真を遺影にしてほしい と
軽い気持ちで思っていた。
それは、自分の撮った写真に自信があるからだ。
みんなとてもいい表情で撮れているから。
実際、そうなった。
なんとも言えない気持ちだった。
この感情は、他の誰かにもない、わたししか味わえない感情だ。
あの写真を撮ったのはわたしなのだから。
みんないい写真だとかいい顔してるって言ってくれて
普段なら嬉しいはずのその言葉が、複雑な気持ちにさせた。
確かにいい顔してるのだ。
今ここでみんなと笑っているような写真なのだ。
目の前にいるような写真なのだ。
わたしはそういう写真を撮りたいと思ってるし、そうしてきた。
そのときもそうだった。
何枚も何枚も撮った。
やっと撮れた表情だった。
みんな笑ってるんだ。幸せそのものなんだ。
遺影として立派な額に入れられた写真を見て
わたしはこのためにあの写真を撮ったんじゃないって思った。
なんの覚悟もなくただ漠然と「遺影撮りたい」なんて思ってたわたしには
まだ早すぎた。
自分の写真を見て苦しくなったのは、過去に数えるほどしかない。
あの写真を撮った日。
その前日、写真を撮ろうかと思っていたけど撮らなくて
でも何故かその日は、撮らなきゃって思ったんだ。
それでカメラを持って出かけた。
いつもは返ってこない年賀状が、今年は届いた。
すべては偶然で、都合のいいように解釈しているだけかもしれないが
今思うのは、あのときあの写真を撮っていて本当によかったと思った。
幸せだったと思う。
みんなが写真を撮らない後悔と、
わたしみたいに写真をやってる人間が撮らない後悔とでは、だいぶ違う。
しょっちゅう撮ってるのに、なんであのときは撮らなかったんだって
思ってしまうのだ。
高3のとき、そう思ったことがある。
写真を残すってすごいことだな。
今日、モノクロの写真を見てきたけど、すごいと思った。
何十年も前の写真。
やっぱり写真っていいなって思った。
こわくたってなんだって、わたしは撮ろうと思う。
撮らないことなんてできない。
撮らないほうが怖いね。
だから今、東京にいることはこわくもあるよ。